「オマルの日記」その後

オマルさんのX(旧ツイッターアカウント)の冒頭にある固定されたページは、支援をもとめる次のような文章にリンクしている。その文章は2023年10月7日に始まるオマルさんと彼の家族の苦難を記している。それはガザの220万人の住民たちの経験でもある。

写真はオマルさんのXからの転載。オマルさんは父親と同じく仕立て屋を生業とするが、無類の読書家で、詩人でもある。

丸2年の間、私は一度たりとも我が家で夜を明かすことができませんでした。私たちは(イスラエルの攻撃の)初日に(ガザ北部の町)ベイトハヌーンを追い出され、(停戦で)戻ったときにはすでに、そこは瓦礫の山と化していました。私の家、私の店、私の仕事だけでなく、かつては天国だった私の近所全体、私の故郷であるベイトハヌーンの町全体が、イスラエル軍によって砂の山に変えられてしまったのです。

最初、私たちはガザ市の中部へと避難させられ、その後再び南部への逃亡を余儀なくされました。その道のりは、私が人生で目撃した中で最も恐ろしい光景の一つでした。散乱する遺体、炎上する車、そして執拗で野蛮な爆撃。私が生き延びて(ガザ中部の)ディール・アルバラにたどり着けるとは思いませんでした。

避難民で溢れかえる学校にようやく到着したものの、スペースがなく、私たちは(ガザ南部の)ハンユーニスへと移動しました。私たちはそこで100日間暮らしましたが、最後はアルアマル病院に閉じ込められました。イスラエル軍は暴行と屈辱を加えながら私たちを追い出し、私たちは(ガザ最南端の)ラファにたどり着きました。そしてその後、再びディール・バラへと戻ったのです。

避難を強いられるたびに、私たちは自らの魂から何かが失われていくのを感じました。自分の中にかつて存在していた人間性、そして愛や強さといった断片を放棄しているかのような感覚でした。

(2025年1月の)休戦が発表されたとき、私たちはベイトハヌーンの瓦礫のもとへと戻りました。私たちはテントを張り、そこで約40日間暮らしました。ええ、その40日間は疲労と苦難に満ちていましたが、私の心には一種の平穏がありました。自分が生まれ育った場所、自らの土地の上で生きていたからです。

しかしその後、ジェノサイド(集団殺害)が再び始まり、それとともに避難の苦しみが再び繰り返されました。

私たちはガザ市へと逃れましたが、それは人類の歴史において最も劣悪な章——飢餓との闘い——の始まりでした。私たちはもはや人間ではありませんでした。私は弟の幼い子供たちを食べさせるために、友人たちから一切れのパンを隠すほどでした。ついには、呪わしいシオニストの占領軍による絶え間ない無差別爆撃によって、私たちは再び南部ディール・アルバラの、照りつける太陽の下にあるテントへと逃亡を余儀なくされたのです。

そして神に感謝すべきことに、最終的に(2025年10月10日の)停戦合意が成立しました。

今日、私は故郷であるベイトハヌーンに戻りたいと願っています。22人の家族とともに、再び自分の人生をやり直したいのです。夏の暑さや冬の寒さから私たちを守るための、少なくとも小さな避難場所を建てたいのです。

家族は私のすべてです。このジェノサイドの間、私は彼らの安全を守り抜きました。私たちはただ、控えめに言っても「尊厳ある生活」と呼べるような人生を送りたいと願っているだけなのです。

助けを求めるのは恥ずかしいことですが、これは私自身のためではなく、子供たち、私の母、父、そして耳の不自由な兄弟姉妹のためなのです。

ですから、私たちが再び人生を再建できるよう、どうかご支援をお願い申し上げます。
https://x.com/OmarHamadD

オマルさんが挙げた写真に写っている鉄筋コンクリートの3本の柱。写真には説明はないが、新たにつくったもののように見える。ガザは封鎖されたままで、まだ復興は始まっていないが、残ったセメントが出回っているのかもしれない。背景に広がる廃墟との対比で、ガザの人々の不屈の思いを見る気がする。

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