1 パレスチナ問題の始まり
パレスチナは、ユダヤ教、キリスト教、イスラームという三つの宗教にとって重要な土地であり、聖地エルサレムがある。それぞれの宗教を信じる人々が暮らしてきた土地でもある。
ヨーロッパで差別や迫害を受けていたユダヤ教徒の一部に、19世紀、迫害から逃れるためユダヤ教徒だけで成る国をつくろうとするシオニズム運動が始まった。
1917年、イギリスはバルフォア宣言を出し、ユダヤ人にパレスチナで「ユダヤ人の民族的郷土」を建設することを支持した。第一次世界大戦後、パレスチナはイギリスの委任統治下に置かれ、ユダヤ人の移住が進んだ。
ユダヤ人の入植が進むにつれてアラブ人住民との衝突が増え、1936年にはシオニズムに反対するアラブ大反乱が始まった。その後、イギリスがユダヤ人移民を制限すると、シオニストの武装組織はイギリスに対するテロ闘争を展開した。
2 イスラエル建国とナクバ
第二次世界大戦後、パレスチナを統治していたイギリスは、アラブ人とユダヤ人の対立が続く中で委任統治を放棄し、問題の解決を国連に委ねた。1947年、国連総会はパレスチナをアラブ国家とユダヤ国家に分ける分割決議を採択した。分割案はユダヤ側に52%の土地を与えるもので、シオニスト側はこれを支持したが、パレスチナのアラブ側は、不当に多くの土地がユダヤ側に与えられたとして拒否した。
1948年5月、イギリスの委任統治が終了すると、シオニスト側はイスラエルの建国を宣言した。これに反発した周辺のアラブ諸国の軍隊が攻め入り、イスラエルとの第一次中東戦争が始まった。アラブ連盟の原加盟7カ国のうち5カ国が、イスラエル建国を阻止しようとして参戦した。
戦争の結果、イスラエルは国連分割決議で割り当てられた地域よりも領土を広げ、英国委任統治領パレスチナの77%を占めた。パレスチナ側に残されたヨルダン川西岸地区とガザ地区は、それぞれヨルダンとエジプトの管轄下に置かれた。イスラエルはこの戦争を「独立戦争」と呼び、敗れたアラブ側は「ナクバ」と呼んだ。「ナクバ」はアラビア語で「破局」や「大災厄」を意味する。
3 パレスチナ難民問題の始まり
第一次中東戦争によって、それまでパレスチナに住んでいた約75万人のアラブ人が故郷を追われ、ガザやヨルダン川西岸、さらに周辺諸国に出て、難民となった。多くの人々は一時的に戦闘を逃れた後に故郷へ戻るつもりだったが、戦闘が終わってもイスラエルは元の土地に帰ることを許さず、そのまま難民となった。多くの人々は徒歩で故郷を離れ、テントでの避難生活を強いられた。
1948年12月、国連総会は決議194号を採択し、故郷への帰還を望む難民の帰還と、戻らないことを選んだ人への財産の補償を定めた。これによってパレスチナ難民の帰還権が保障されたが、イスラエル政府は決議の受け入れを拒否し、帰還を認めなかった。
1949年12月、家を失い行き場を失ったパレスチナ難民を救援するため、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)が設立された。UNRWAはヨルダン川西岸地区、ガザ地区、ヨルダン、レバノン、シリアに難民キャンプを設立し、教育や基礎医療などの社会福祉を提供し、戦闘時には緊急支援を担ってきた。難民の子孫もUNRWAに難民として登録され、2022年末には約590万人となっている。
4 中東戦争とイスラエルの占領
イスラエルとアラブ諸国の間では、1948年の第一次中東戦争から1973年の第四次中東戦争まで、四度の中東戦争が起きた。この間、パレスチナの占領をめぐる問題はアラブ諸国に共通する政治課題と捉えられていた。
大きな転機となったのが1967年の第三次中東戦争である。イスラエルはエジプトを奇襲攻撃し、シナイ半島とガザ地区を占領するとともに、シリア、ヨルダンとも戦い、ゴラン高原とヨルダン川西岸地区を軍事占領した。戦争は6日間で終わり、「六日間戦争」とも呼ばれる。この戦争によって東エルサレムを含むエルサレム全域もイスラエルの軍事占領下に入った。
また、ヨルダン川西岸地区とガザ地区から新たに約10万人のパレスチナ人が難民となった。
5 PLOとパレスチナ人の抵抗
イスラエル建国によって故郷を追われたパレスチナ人は、離散先で生活を再建する一方、故郷の土地の解放を目指す抵抗運動を始めた。1964年にはパレスチナ解放機構(PLO)が設立された。
1967年の第三次中東戦争でアラブ諸国がイスラエルに大敗すると、それまでアラブ諸国が中心となっていたパレスチナ解放の闘争は、次第にパレスチナ人自身が主導するようになった。1968年、ヨルダン川東岸のカラーマで、ヤーセル・アラファートが率いるファタハなどのゲリラがイスラエル軍と戦い、その後、パレスチナのゲリラ組織への参加者が急増した。翌1969年、アラファートはPLO議長に選出された。
PLO傘下ではファタハのほか、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)、DFLP(パレスチナ解放民主戦線)などが活動した。それぞれが労働組合、女性団体、学生同盟などをつくり、難民キャンプを中心に人々の生活を立て直し、社会福祉サービスを提供した。一方、各派閥の軍事部門はイスラエルへの潜入や越境攻撃などの武装闘争を行った。
6 インティファーダとハマースの登場
1979年、アラブ諸国の中心的存在だったエジプトがイスラエルと単独で平和条約を結び、パレスチナ問題をめぐるアラブ諸国の連帯は弱まった。さらに1982年、イスラエルがレバノンに侵攻し、PLOはレバノンから撤退して、遠く離れたチュニジアに本部を移した。パレスチナ問題への国際的な関心も薄れ、イスラエル占領下のパレスチナ人は孤立を深めていった。
こうした中、1987年、ガザ地区でイスラエルの占領に対する民衆蜂起「第一次インティファーダ」が始まり、ヨルダン川西岸地区にも広がった。「インティファーダ」とはアラビア語で「揺り動かす」「振り払う」という意味で、占領や抑圧を振り払う民衆蜂起を指す。重武装したイスラエル兵に投石で立ち向かう青年や子どもたちの姿が、この運動を象徴するものとなった。
同じ1987年、第一次インティファーダをきっかけに、ガザ地区でハマース(「イスラーム抵抗運動」の略称)が発足した。母体となったのは、それまで政治活動には関与せず、社会福祉活動などを行っていたムスリム同胞団系の組織だった。 ハマースは武装闘争を含む対イスラエル抵抗運動を掲げ、PLO系の民族統一指導部とは別の運動体として、イスラエルへの抵抗運動への参加を進めていった。
7 オスロ合意とパレスチナ自治
第一次インティファーダを経て、アラファートが率いるPLO主流派ファタハはイスラエルとの和平に踏み出した。秘密協議を経て、1993年にイスラエルとPLOの間でオスロ合意が結ばれた。 双方は互いを交渉相手として承認し、ヨルダン川西岸地区とガザ地区にパレスチナ自治政府を設立することになった。1994年にはガザ地区と西岸地区のエリコで先行自治が始まり、自治政府はPLO主流派ファタハが担った。
しかし、パレスチナ側が一枚岩だったわけではない。PLO内部でもPFLP(パレスチナ解放人民戦線)やDFLP(パレスチナ解放民主戦線)などがオスロ合意に反対し、PLOに参加していないハマースやイスラーム・ジハードも反対した。 イスラエルを承認することへの反発に加え、合意によってパレスチナ国家の樹立が明確に保証されていないことなどへの批判があった。
オスロ合意では、エルサレムの扱いや、パレスチナ難民の帰還を認めるのか、国境線をどこに引くのか、ユダヤ人入植地をどうするのかといった、紛争の核心となる問題について具体的な解決策を決めず、後の「最終地位交渉」に先送りした。
その後、和平交渉は行き詰まり、イスラエルの占領は続き、入植地も拡大した。
8 第2次インティファーダ
オスロ合意による和平交渉は続けられたが、2000年7月の米国仲介によるキャンプ・デービッド会談でも合意に至らなかった。特にパレスチナ難民の帰還権とエルサレムの帰属が大きな対立点となった。
同年9月、イスラエル右派リクードのシャロンが、イスラームの聖地であるアル・アクサー・モスクのあるハラム・アッシャリーフ(イスラエル側の呼称「神殿の丘」)を訪問した。これに抗議するパレスチナ人とイスラエル警察との衝突が起き、第二次インティファーダへと発展した。
第一次インティファーダがデモやストライキなど非暴力的な抵抗を中心としていたのに対し、第二次インティファーダでは武装化が進んだ。パレスチナ側では自爆攻撃や銃撃など、イスラエルの一般市民を巻き込む攻撃が頻繁に行われ、イスラエル軍もパレスチナ自治区への大規模な軍事侵攻や武装組織指導者への暗殺攻撃などで応じた。
イスラエルは自爆攻撃の侵入を防ぐことを理由に、西岸地区とイスラエルとの間に分離壁の建設を進めた。壁は西岸地区の内部に食い込む形でも建設され、その過程でパレスチナ側の土地がさらに奪われた。第二次インティファーダが続く中、アラファート大統領はイスラエル軍によってラーマッラーの議長府に事実上軟禁され、2004年に死去した。
9 ガザ封鎖と繰り返される戦争
2005年、イスラエルはガザ地区からユダヤ人入植地と軍を撤退させた。翌2006年のパレスチナ立法評議会選挙ではハマースが勝利して政権を担ったが、イスラエルや欧米諸国などはハマース政権を認めず、経済制裁を科した。
2007年、ハマースとファタハの対立が武力衝突に発展し、ハマースがガザ地区を制圧した。これに対し、ファタハのアッバース大統領はハマースのハニーエ首相を解任し、パレスチナは、ガザ地区をハマース、西岸地区をファタハが中心となって統治する分裂状態となった。イスラエルはガザ地区への本格的な封鎖を開始し、人や物資の出入りを厳しく制限した。燃料、食料、日用品、医薬品などが慢性的に不足し、ガザ地区は孤立していった。
封鎖が続く中、ガザの武装勢力によるイスラエルへのロケット攻撃と、それに対するイスラエル軍の大規模な攻撃が2008~09年、2012年、2014年、2021年と繰り返された。とくに人口が密集し、安全な避難場所のないガザ地区への空爆や地上侵攻によって、多くの住民が犠牲となり、住宅や社会基盤も大きな被害を受けた。
10 2023年10月7日とイスラエル・ガザ戦争
2023年10月7日、ハマースなどガザ地区の武装勢力は「アル・アクサー洪水」と名づけた大規模な奇襲攻撃をイスラエルに行った。武装勢力はガザを囲む境界を突破してイスラエル側に侵入し、イスラエル人らを殺害するとともに、多数を人質としてガザ地区に連行した。
翌8日、イスラエル政府は公式に開戦を宣言し、ガザへの電力と燃料の供給を停止し、「完全包囲」を宣言した。10月27日にはイスラエル軍がガザ地区への地上侵攻を開始した。戦争によってガザ地区では大規模な避難が起き、開戦から約3カ月の間に190万人が家を追われた。
この大規模な避難は、1948年の第一次中東戦争で数十万人が家を失った「ナクバ」を想起させるものとなった。
また、10月7日の攻撃後、レバノンのヒズブッラーはハマースに連帯してイスラエル北部への攻撃を開始し、イスラエル軍もレバノン南部のヒズブッラー拠点などを攻撃した。戦争はガザ地区にとどまらず、周辺地域へと拡大していった。
参照:錦田愛子著『パレスチナ/イスラエルを読み解く』(えにし書房、2026)