イスラエル軍の攻撃によって避難を繰り返すガザの子どもたちに、学ぶ場所と食事を提供する「寺子屋と子ども食堂」の活動が続けられている。活動を行っているのは、日本とガザの有志による「ハヤートナ(hayaat.na)」である。
活動の中心となっているのは、ガザで結婚し、現地で暮らしていた日本人女性、藤永香織(ヤスミン)さんと、ガザで暮らす二人の息子、ムハンマド、マッスーシー兄弟である。藤永さんは現在、体調を崩して日本に滞在しており、ガザにいる二人と連絡を取りながら、その活動を支えている。

「ガザの寺子屋と子ども食堂」プロジェクトは、2024年11月、ガザ南部のハンユニスで避難生活を送っていた兄弟が、自室で近所の子どもたちに勉強を教えていたマイサ先生と出会ったことから始まった。場所を借り、机、椅子、黒板をそろえ、当初約25人の子どもを対象に寺子屋を開いた。やがて通ってくる子どもが増え、子ども食堂も始まった。
2025年3月にイスラエル軍の攻撃が再開され、ガザ最南端のラファに退避命令が出されると、多くの避難者がハンユニスに押し寄せた。寺子屋に来る子どもは一気に100人を超えたため、新たにサマール先生とムハンマド先生が加わった。子どもたちが体を動かしてストレスを発散できるよう、お遊戯会も開いた。4月にマイサ先生が寺子屋を離れた後は、地元の人々の紹介でアーヤ先生が活動を引き継いだ。

しかし、ハンユニスも退避命令の対象となり、寺子屋に通っていた子どもや教師、運営を担っていた人々は散り散りになった。ムハンマドとマッスーシーは、イスラエル軍が避難場所に指定したハンユニス近郊のマワシに言ったが、テントを確保できず、ほかの避難者とともに、避難できる場所を探しながら移動を続けた。その末にたどり着いたのが、ガザ市近郊だった。
そこで二人は、避難してきた数人の子どもたちに勉強を教えていた女性と出会った。破壊された建物の一室を使って臨時の寺子屋を開くと、海側のテント地区からも子どもたちが集まり、初日から95~100人が授業を受けた。
やがてガザ市近郊でも攻撃が増え、人々は再び移動を始めた。二人はマワシへの避難を決め、まず男性数人で現地へ向かって場所を確保した。テントは手に入らなかったため、木材とシートを購入して自分たちで組み立て、その後、女性や子どもたちを移動させた。マワシでは、イギリスの有志からの寄付で運営されている寺子屋と出会い、放課後おやつクラブを始めた。
2025年10月10日からの停戦に伴い、マワシのテント地区から町へ戻る動きが始まった。二人もハンユニスへ戻り、同年12月13日、寺子屋を7か月ぶりに再開した。初日は24人、翌日は36人だったが、その後、通ってくる子どもは95~100人に増えた。

一方、マワシでは、それまで活動していた寺子屋が移転し、学ぶ場所を失った子どもたちが残された。二人と教師たちは話し合い、マワシにも第二の寺子屋を開いた。感染症が広がり、体調を崩して欠席する子どもが増えるなかでも、2026年7月時点で約65~70人が出席していた。ハンユニスの寺子屋にも、毎回95~98人ほどの子どもが通っていた。
この寺子屋は、一つの建物にとどまる学校ではない。攻撃と退避命令のたびに人々とともに移動し、借りた部屋、破壊された建物、避難テントへと形を変えながら続いてきた。日本にいる藤永さんと、ガザで活動する二人の息子、現地の教師や住民が連絡を取り合い、避難先で子どもたちの学ぶ場所を何度もつくり直してきたのである。
