■国境なき医師団の看護師としてガザで働いて

白川優子(国境なき医師団)

私はガザへ行く前、ガザを知っているつもりだった。でも知らなかった。

ニュースで何度も目にしていた。空爆、封鎖、瓦礫、泣き叫ぶ人びと。ガザ地区は「世界最大の監獄」とも呼ばれる。周囲を壁とフェンスと海に囲まれ、人も物も自由に行き来できない。知識としては知っていた。

 2016年、私は国境なき医師団の看護師として、4カ月間ガザで働いた。火傷や銃創の患者を治療する二つのクリニックを担当した。そこで、何人もの脚を撃たれた青年たちに出会った。

 「彼らはね、わざわざ撃たれに行くんだよ」

 一緒に働いていたパレスチナ人医師の言葉に、私は耳を疑った。境界付近へ行けば、イスラエル兵に撃たれるかもしれない。それを知りながら青年たちは出かけていき、負傷して病院へ運ばれてくる。傷が治ると、また行く者もいた。危険が分かっているのに、なぜ、そこまでして行くのだろう。けれど、4か月をガザで過ごすうちに、私には少しずつ違うものが見えてきた。

 彼らは「紛争地に生きる人」になるために生まれてきたわけではない。

 恋をする。家族を心配する。冗談を言う。仕事をしたい。勉強したい。海を見たい。自由に出かけたい。明日のことを考えたい。――ただ、ごく普通に生きたい。けれど、その「普通」が難しい場所だった。

 大学を卒業しても仕事がない。自由に外へ出ることもできない。目の前には美しい地中海が広がっているのに、沖へ出ればイスラエル海軍から威嚇される。境界へ行けば銃を向けられる。そんな閉塞の中で、若者たちは境界へ行き、フェンスの向こうに向かって「解放」と「自由」を叫んでいた。

私が治療に関わったのは、その「後」だった。銃弾を受けた脚。何度も繰り返す治療。松葉杖をつきながら、クリニックの前で仲間と話す青年たち。そこには、ニュースの中の「負傷者」ではなく、一人ひとりの暮らしがあり、人生があった。

ガザでは、空爆の直後にも人々は仕事へ向かった。看護師も受付スタッフも清掃員も、いつものように「おはよう」と笑った。街では女性たちがおしゃべりをし、子どもたちが遊んでいた。いつものパン屋さんに行けば、笑っておまけをしてくれた。人々は家族と過ごし、笑い、いつもの一日を生きていた。みんな、みんな、本当に普通に、平和や自由を願う人々だった。

 あれから10年が経つ。今、ガザから届くニュースを見るたび、私はこの写真の中の人たちを思い出す。松葉杖をついていた青年たち。クリニックで一緒に働いた仲間たち。街で出会い、一緒に笑った女性たち。

 あの人たちは、今、どうしているのだろう。本当は一人ひとりの名前を思い浮かべ、今どこにいるのか、無事なのか、確かめたい。でも、その先を知るのが怖い。この写真の中では、みんな笑っているからだ。あの笑顔の続きを、勝手に信じていたい自分がいる。今のガザを見れば、そんなはずはないと分かっているのに。

 顔も、声も、笑い方も知っている。それなのに、つらくなると画面を閉じる。そして遠く離れた平和な日本で、いつもの日常に戻っていく。

 今私は、ガザで起きていることを、本当に見ることができているのだろうか。

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